香りを意味する英語のperfumeは

ラテン語のPer Fumum(through smoke:煙によって)が語源です。
人間が香りを利用するようになったのは、火を発見したときからだろうといわれています。
歴史上もっとも古い発見としては、ネアンデルタール人の墓に残された花粉の跡があり、この時代から死者に花を手向ける習慣があったとされています

香料が、初めて歴史に登場するのは古代エジプト(紀元前3000年頃)シュメール人は、レバノンセダー(「香りのする杉」の意。ヒマラヤスギ属)で神への薫香を捧げていました。
偉い王様が亡くなると、亡き骸に香料を塗り、死後の魂の蘇りを信じて「乳香(フランキンセンス)」「没薬(ミルラ)」など防腐効果のある植物を使い
ミイラにして手厚く葬りました

その当時用いられた香料は、白檀(びゃくだん)、肉桂(にっけい)イリス(あやめの一種)の根や、香りのよい樹脂などでした。
神殿では植物の香りをくゆらせる薫香がたかれ、お湯やオリーブ油などに植物を漬け込んで作る浸剤(ハーブティーやハーブオイル)の利用されていました。

香料が持つ防腐・防臭効果はミイラ作りだけでなく、部屋を芳香で満たして香油を身体に塗り、衣類に香を焚きこみ、ハスの香りをしみこませた帽子をかぶって香りを楽しんだのです。食物や菓子の風味付けに香料が利用されるのもこの時代です。

インドの伝統療法で、自然観を含む哲学「アーユルヴェーダ」は約3000年以上の歴史を持ちアロマテラピーに大きな影響を与えました。

ギリシャ時代

ギリシャ時代になると、香料の製造が盛んになり、入浴後に香油をからだに塗る習慣が次第に広まってきました。

西洋医学の祖といわれるヒポクラテスは、においに病気の治療効果があることを指摘しています。病気を科学的にとらえ現代の西洋医学に通じる基礎を築いた人物です。

アリストテレスの弟子の、植物学の祖といわれるテオフラストスは、植物の分類や伝統だった研究を行い「植物誌」、を書いたことで
複数の香料を調合することで香りのトーンが変化することや、香料の保留剤についての考察、ワインなどのアルコールが香り立ちをよくすることなどについても言及しています。

やがて、香料がギリシャからローマに伝わると、ローズウォーターなどが香りの主役になり、浴室や寝室にまで香りを用いるようになります。美食の文化を誇る古代ローマの貴族は、主力調味料の魚醤の生ぐささを消すために香辛料やビネガーを用い、浴びるように香料を用いたといわれています。

壮大な社交用建築物の中心にあったローマ風呂で1日3回の入浴を楽しんだ貴族たちは、膨大な量の香油や香膏を体に塗り、部屋や衣類に香りをつけるために固体香料や粉末香料を用いました。香料への欲求は交易ルートをアラビア半島やインド、中国にまで拡大させ、香料を入れる容器の需要がガラス工芸技術の発展に貢献します。

12世紀、十字軍の遠征によって、麝香(じゃこう)をはじめ東洋のさまざまな香料がヨーロッパに持ち帰られました。そしてベニスの商人たちの手により香料やスパイスが広く取引されるようになったのです。


1370年ハンガリーの王妃、エリザベートが手足が痛む病気を患い修道院の僧がローズマリーを抽出したもっとも古いアルコールを使い痛み止めを献上。
痛みが消えたといいます。「ハンガリー王妃の水(ハンガリーウォーター)」といいます。隣国のポーランドの王子が70歳を過ぎた彼女に求婚したことから「若返りの水」と呼ばれ今に伝わります。

南フランスにグラースという町があります

南フランスにグラースという町があります。現在、世界の香料の中心地ともいうべきこの町は、12世紀末頃には皮革工業が盛んでした。16世紀になって、イタリアはフィレンツェのトンバリレという人が、初めてこの町に香料を紹介して大きな変化が起こりました。というのは、香料が皮の臭いを消すのに役立つため、この町で大いにもてはやされたのです。

その後、マルセーユなどで盛んになった石鹸に香料が使用されるようになり、グラースは香料の中心地として発展していったのです。グラース地方の温暖な気候、風土は、ジャスミン、ローズ、ラベンダー、オレンジフラワーなど、多くの香料植物の栽培に適しており、この町は「香料のメッカ」とまで呼ばれるようになったのです。

香料をアルコールに溶かした現在の香水やオー・ド・トワレのようなものが初めて作られたのは16世紀末のこと。

フランスアンリ2世の夫人であったカトリーヌ・ド・メディチが、イタリアのフィレンツェからの輿入れの時に持ってきて、世に知られるようになったといわれています。

オーデコロンの誕生には諸説があってはっきりわかっていませんが、大筋は以下の通りです。前身はイタリアで発売された「アクア・ミラビリス(すばらしい水)」で、17世紀末か18世紀はじめにケルンに紹介され「ケルンの水」となり、18世紀後半に七年戦争やナポレオンの遠征でプロイセンに侵攻していたフランス軍兵士がケルンから大量にパリに持ち帰り、「オーデコロン」と呼ばれ流行し始めました。ナポレオンによってフランス革命の嵐がおさまり、ギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの愛好していたバラやスミレなどを主体とした香水が、彼女の死後急激に流行し始めたのはなんとも皮肉な話です。
ちなみに1775年に設立されたウガンダ社の香り製品をマリーアントワネットが愛用していた。

ナポレオンの天下はわずか10年で終わりを告げましたが、
1828年ゲラン社設立。1861年ナポレオン3世の妃にオーディコロンアンぺリアルを献上しました。
グラースの町は革命の余波を受けながらも、香料植物の栽培や香料の製造はますます発展を続けていきました。

そして20世紀初め、フランスの化学者ルネ・モーリス・ガットフォセが実験中の事故で火傷を負ってしまい、
治療の過程でラベンダーの精油(エッセンシャルオイル)を使用して効果を実感。
精油(エッセンシャルオイル)の研究に没頭しました。「アロマテラピー」という言葉はガットフォセが造語を作りました。

現在アロマコロジーは芳香心理学といって香りが人の心や脳に影響があることがきちんとわかり暮らしに導入して活用し、心地よく暮らしましょうといった提案がどんどんされています

日本では

東洋では、インドに起源を持つ香料が極東に普及する過程で、西洋とは対照的な香りの文化が発展します。白檀や沈香、スパイスを焚いて死者を来世に送る習慣があった古代インドでは、王侯貴族が香膏を体に塗り、芳しい香煙を楽しんでいたことがバラモン教の聖典『ヴェーダ』(BC5以前)に記されています。

中国で香料が線香や薫香に用いられるようになるのは六朝時代(3~6世紀)になってからのことです。シルクロードが開通した紀元前2世紀以降も、香辛料が利用されていたことを除けば、ヨーロッパやインドのように食品加工や装身に香料を用いることはありませんでした。

香は6世紀の飛鳥時代に仏教伝来と共に日本に伝えられ、奈良時代になると、唐の鑑真和上が沈香や白檀など数種類の香薬を調合して作る薫物を日本に伝えます。初めは供香(そなえこう)として仏前に用いられましたが、平安時代には、宮廷を中心に空薫物(そらだきもの)として部屋や着物に香をたきしめる風習が盛んになりました。

代表的な小野小町は平安時代の女流歌。13歳で都に上がり宮中に仕えた。その際、香道の才能が花開き類まれな才能と美貌で有名になり92歳で亡くなるまで
香を炊きながら静かに余生を送ったとされる。

武家社会になると香の嗜好も一変し、複雑で濃艶な香りからひとつの清楚優雅な香りを聞く(聞香)ようになり、その味わいに文学的な雅境を見出そうとする日本固有の「香り文化」が登場します。室町時代に、香木をたいて香りを鑑賞する遊びとして香道が確立され、三條西流(御家流)と志野流が香道の中心となって今日に及んでいます。

香道では、六国(りつこく)といって、六種類の香木を用いて組香(くみこう)をつくり、香席で順にまわして香をかぎ分け、香の組み合わせを当てたり、香を一つずつ順番にまわして、その香の名前を当てたりして楽しみます。

庶民が香料を化粧に用いるなど、身近な存在となるのは江戸時代です。江戸初期の庶民は、芳香化粧品として「伽羅の油」や「花の露」と呼ばれる鬢付け油を愛用していましたが、中期になると香油が芳香化粧品の中心になり、後半期には化粧水が誕生します。

平賀源内は、『物類品隲』の中でランビキ(蘭引)という蒸留器を使った「薔薇露」の作り方を紹介しています。文化10(1813)年の女性の教養書『都風俗化粧伝』ではランビキがない場合の「花の露の取り方」としてヤカンと茶碗を使って化粧水を作る方法が紹介されています。江戸下町の薬屋を通して、化粧水が広く出回っていたことがわかります。

江戸末期から明治初期にかけて舶来の香水が紹介され、明治5(1872)年以降は“香水(においみず)”として、「桜水」「白薔薇」「オリヂナル香水」国産の洋風フレグランスが相次いで発売されます。政府の欧化対策の影響で化粧が洋風化したこともあり、香水(フレグランス)需要は急速な伸びを見せます。日露戦争を前後して庶民の髪型や化粧にも変化が現れ、洋風化粧に伴った化粧品が普及します。

参照 日本香料工業会
参考文献  アロマテラピー検定2級、1級(日本アロマ環境協会)